大東亜戦争と知られざる真実

この記事では、第二次世界大戦中の複雑で多面的な日本の歴史を掘り下げていくことにする。近衛文麿の政治的策略から、物議を醸した山本五十六の人物像、原爆投下の真相、そして未遂に終わった「ダウンフォール作戦」まで、この重要な時期を形作った複雑な意思決定、戦略、道徳的ジレンマの網の目を探る。この記事は、歴史の隠された側面に光を当て、日本が戦争に至る道筋を包括的に理解し、未来のために私たちが学べる教訓を提供する。

目次

近衛文麿とその時代 – 日本の歴史の中の重要な一節

日本の政治史における近衛文麿の役割は多岐にわたります。その功績と挑戦について深く探るため、彼の背後にいた人々と彼自身の行動に焦点を当てたいと思う。

近衛文麿と関連人物の複雑な存在

近衛文麿自身はグローバリズム勢力に支配され、その傘下の共産主義勢力や反日分子に浸透された存在だった。この点が、彼の政治的行動や判断において大きな影響を与えたと言えるだろう。新たに明らかになった一次史料から、近衛文麿とハウス大佐の関係の深さとその歴史的重要性が浮かび上がる。昭和9年、近衛文麿は満州国の認知を求めて訪米したが、その目的はルーズベルト大統領に向けられたものではなく、国際金融資本に対してだった。その訪米中、彼が会談した重要人物の中でも、ハウス大佐の存在は特筆すべきものだった。ハウス大佐から「ニューオーダー」を提示するように指導され、その言葉通りに行動した近衛は、東亜新秩序を形成した。しかし、ハウス大佐にとってこの新秩序は、日本を破壊し、本当の意味でのニューワールドオーダーへの道筋をつける大事なステップに過ぎなかったのです。その心理的、精神的な影響は極めて大きく、この二人の関係は、当時の世界秩序に対する深い洞察を提供してくれます。この事実は、歴史的な繋がりとグローバリズムの深遠な影響を、一層鮮明に描き出すものとなっている。

近衛文麿と中山優

中山優は、近衛文麿の父が作った大アジア主義の学校、東亜同文書院の一員だった。上海に作った日本の大学を出て、朝日新聞に入社した後、外務省に所属し、大アジア協会などで活躍しました。彼は、第二次近衛声明の草稿作成に携わる。

近衛文麿の訪米した時の話を聞いた中山優によれば、近衛はハウス大佐の指導をヒントに新秩序声明を出したと言ったそうだが、実際にはそのままだった。

さらに、第三次近衛声明の草案も中山優が作った。この声明は、汪兆銘政権を支えるもので、日本が支那に対して領土や賠償を求めていないと明文に書かれていた。中山優の後輩には尾崎秀実が居たが、尾崎の保守的な態度に中山優は疑問を感じたようだ。

近衛文麿の政治的位置づけ

近衛文麿の政治的活動は、日本の歴史的背景と深く結びついている。彼の第一次近衛内閣は、支那事変を引き起こす一因となった。

一方で、重光葵や鳩山一郎など、他の政治家からは近衛に対して批判的な意見も多く、彼のリーダーシップに疑念が持たれていた。重光は、近衛の第一次内閣の活動を批判し、日本人が健忘症であると語っている。

マスコミの役割も無視できない。近衛文麿自身がNHK総裁であったり、風見章・尾崎秀実が朝日新聞に影響力を持っていたため、メディアは近衛をヒーローに仕立て上げた。このことが、彼の人気上昇に一役買ったと言えるだろう。

真珠湾攻撃の背景

大東亜戦争の勃発に至る背後には、歴史の表舞台で語られることの少ない複雑な力学が隠されている。戦争の始まりと終焉、その背後にある力とは何だったのか?

グローバリズム勢力の影響

大東亜戦争(1941年12月7日:ハワイ時間)の始まりは、アメリカのルーズベルト政権とその背後のグローバリズム勢力、そして大手メディアによって推進された。具体的には、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストなどのメディアが、日本に対する攻撃的な姿勢を煽り立てた。

一方で、日本もまた、朝日新聞などのメディアを通じてアメリカに対する反感を煽った。ルーズベルト政権による経済封鎖の報道が、国民のアメリカ憎しを引き起こしたのである。

しかし、重要なのは、そもそものところで、アメリカ国民も日本も戦争を望んでいなかったという事実である。第一次世界大戦の反省からアメリカは参戦する気がなく、日本も大国アメリカとの戦争は考えられないことだった。

それにもかかわらず、グローバリズム勢力の影響により、必要のない日米総力戦が始まり、予期せぬ敗北へと繋がってしまった。この悲劇的な結末は、戦争が単なる国家間の対立だけでなく、より広い勢力とメディア操作によって操られた側面があったことを示すものとなった。

真珠湾攻撃:山本五十六と永野修身の画策による歴史的決断

1941年12月7日、大東亜戦争が始まる端緒となった真珠湾攻撃。この奇襲攻撃は、帝国海軍の連合艦隊司令長官である山本五十六と軍令部総長の永野修身によって画策された。これは日本とアメリカの戦争のスタートを告げる重要な事件であったが、その背後にある戦略と意図は一体何だったのか。

日本の指導部は、アメリカとの戦争には消極的であった。アメリカとの交渉によって戦争を回避しようとする動きもあった中で、山本五十六は真珠湾攻撃を強行する決断を下した。彼の意図は、アメリカ太平洋艦隊を一気に撃滅し、アメリカの戦争能力を喪失させることにあった。

帝国陸軍と帝国海軍の間では、戦略についての対立が存在していた。特に陸軍側は、真珠湾攻撃を回避し、アメリカに対して世論工作を行いたいという意向があった。しかし、山本と永野の強い意志によって、真珠湾攻撃は実行された。

真珠湾攻撃は、アメリカ太平洋艦隊に壊滅的な打撃を与えることに成功した。しかし、この攻撃がアメリカ国民の戦争への決意を高め、日米戦争を不可避にしたことは否めない。この結果、戦争は日本の敗北に終わり、アジア太平洋地域の歴史に深く刻まれることとなった。

山本五十六と永野修身が主導した真珠湾攻撃は、大東亜戦争の重要な転換点であり、その後の戦局に大きな影響を及ぼした。この攻撃の背後に潜むグローバリズム勢力の思惑と目的、そしてその結果と影響は、日本にとって不必要な戦争であり敗北する必要がなかった戦争であったという観点から、真珠湾攻撃が引き起こした悪魔的な結末は、原爆の投下であったと言えるだろう。

7発以上の原爆投下を示す機密文書の解読

最近解密された機密文書に基づいて、広島と長崎への原爆投下の背後に隠された未知の計画を探る。この文書は、2発の原爆投下の後に計画されていた、さらなる6発以上の投下の証拠を明らかにしている。

解除された機密文書

2020年8月に機密解除されたこの文書は、マーシャル図書館に保管されていた。この文書は、ハル将軍とシーマン大佐の1945年8月13日の電話会議録を記録しており、原爆投下の計画についての我々が知らなかった未知の詳細を明らかにしている。

電話会議の記録によると、広島と長崎への2発の原爆投下の後、8月19日には第3発目の投下が可能であり、9月には第4発と第5発、10月には第6発から第7発の投下が可能であったことが示されている。この計画は、10日ごとの投下スケジュールを含んでおり、上陸侵攻前にまとめて投下する選択肢も考慮されていた。

この追加の投下計画の背景には、原爆の効果を最大限に示し、戦後のソ連の勢力拡大を抑止する意図もあると同時に1発よりも2発、2発よりも3発、3発よりも4発、4発よりも10発の方が、研究開発費に対して1発あたりの費用が削減されるという理論で自国民を納得させる意図もあった。つまり我々が知らされている「原爆投下は戦争終結」が主要な目的ではなかったことを示している。

ダウンフォール作戦:隠された意図と戦略の真実

ダウンフォール作戦は、日本本土への侵攻を目的とした連合国の計画だった。この作戦が実行されなかったのは、天皇陛下が8月15日に御聖断を下されたためだ。

ダウンフォール作戦は、オリンピック作戦とコロネット作戦の二つに分かれていて、オリンピック作戦は11月に南九州への侵攻を予定していたもので、コロネット作戦は3月に南関東への侵攻を計画していた。

南関東と南九州に原爆を落とすのは既定路線であり、本土上陸作戦を止めるために原爆を落としたという通説は事実と異なる。原爆投下の背後には、より複雑な意図が存在していた。

ダウンフォール作戦では、生物化学兵器や毒ガス兵器等の使用も検討されていた。これらの兵器の使用は、戦争の倫理と戦略に対する深刻な問題を提起している。

ダウンフォール作戦には、多くの勢力と思惑が絡んでおり、軍事的流れが計画線で引かれていた。原爆10数発の投下計画と、ノルマンディー上陸作戦をはるかに超える水陸両用作戦が事実であったことは、当時の指導者にも知られていた。

王立国際問題研究所が描いた、戦後の日本占領政策

ここからは戦後の日本占領政策に焦点を当て、王立国際問題研究所が戦争中に出した報告書に基づいて分析していく。この報告書は、戦後の日本に対する占領政策とその実施方法についての詳細な計画を描いており、当時の国際政治や戦略的な考え方に新たな洞察が得られる。

占領政策の目的

報告書では、日本占領の主要な目的として、戦後のアジア太平洋地域の安定と国際秩序の確立が挙げられている。大日本帝国の既存の機構を破壊するのではなく、その構造と機能を利用することで、スムーズな占領と統治を目指す方針が強調されている。

既存機構の利用

報告書は、日本の既存の政府機構と社会構造を破壊することなく、占領政策の目的を達成する方法を提案した。これにより、占領軍と日本政府との協力が可能となり、戦後の再建と安定化を促進することが期待された。

文化と社会への配慮

日本の文化と社会の理解と尊重が、成功した占領政策の鍵であると指摘され、日本人の価値観と慣習を尊重することで、占領軍と地域社会との間に信頼関係を築くことができるとの見解が示された。

経済と産業の再構築

戦後の経済復興と産業の再構築も報告書の重要なテーマだった。経済の安定と成長は、社会の安定と国際社会への再統合に不可欠であると認識された。

国際協力と連携

報告書は、占領政策の成功には、連合国との協力と連携が必要であると強調ている。国際共同体との調和の取れた関係を築くことで、日本の平和的な再統合と地域の安全保障が促進されるとされた。

【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第29回「新世界秩序への迎合だった近衛文麿の『東亜新秩序』宣言 / 戦後日本を創った昭和20年8月15日の前と後(チャンネル桜より)

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