江崎道朗 日本列島分断の危機

江崎道朗 日本列島分断の危機

前回の江崎道朗さんの記事では 日本の敗戦後、共産主義勢力が政府を乗っ取ろうとした様々な画策を『暴かれたコミンテルンの真実』のタイトルで 全4回の記事で解説していただいた。そして、今回はその第2弾『日本敗戦革命!第二の危機』を解説をしていく。

「日本敗戦革命 第二の危機」の概要

① 日本列島分断の危機      ←この記事
②  抑止力を持たない国家の運命

ラトビアの軍事博物館に日の丸があった

ちょうど今年がコミンテルン結成100年。

実はこの2月から3月に バルト三国と ポーランドに行って来ました。ソ連 コミンテルンによって バルト三国や ポーランドは 第二次世界対戦中から占領されて、ずっと苦しんできていたので バルト三国や ポーランドは今ですね、ソ連 コミンテルン KGB がいかに酷いことを俺たちにしたのかという戦争博物館をあっちこっちに作って告発運動をやっているんですよ。

ソ連 スターリンの戦争責任を忘れるな!とやってるんです。

その辺の動きがずっと動いていて とりわけ ヨーロッパと中国、北朝鮮は ソ連 コミンテルンの工作で共産主義の国になって、中国共産党は コミンテルンの支部なので。ちなみに日本共産党は コミンテルン日本支部ですよね。そういう形で世界中に共産党を作って共産化しよう。

「共産化する」って何かと言うと、金持ちぶっ殺して共産党の俺たちが一党独裁をして、お前ら人民は言うこと聞けと非常に酷い仕組みなわけです。

ソ連に飲み込まれて国が無くなってしまった国がたくさんありました。ソ連が崩壊してからこんな国あったのと思う国がある。

例えばバルト三国。アルバニア、ウクライナとか併合されて国が無くなって この バルト三国なんて痛々しいぐらいやられまくって、いかに ソ連 スターリンが酷い連中なのかということを博物館でずっとやってて、ラトビア軍事博物館に行ったら ソ連共産主義と ロシアがいかに酷い国なのかという展示がずっとあって、最後のところに日本の日の丸があったんです。

なぜかというと、ラトビアが占領された後 ラトビアの人は シベリア送りにされているんです。シベリア樺太に送られてるんですね、軍人たちや エリートたちが。

日本も戦争に負けた後 シベリアに行っているじゃないですか。同じ シベリアで抑留された日本の軍人とラトビアの軍人たちが助け合ってるんですね ラーゲリで。

その時 日本人が本当に俺たちを助けてくれたと感謝の思いで日の丸の旗を掲げている。ラトビアに行って日の丸の旗を見るなんて思わなかったですけどね。

リトアニアは杉原千畝が駐在したところで、杉原さんに対しても記念碑を建てたりとか杉原千畝を含めて日本人は ソ連と戦う上で味方だった。日本に対しての評価は非常に高い。

僕質問したんですよ。「ソ連が正義であると歴史感」どう思います?と。そしたら睨まれましたよ(笑)

ソ連が正義ってどういうこと?東京裁判史観のことなんですよ。ソ連が正しいってふざけるなよお前ら何考えてるんだっよって。

そういう ソ連がずっと共産主義の勢力が世界を共産化して 20世紀は共産主義に乗っ取られた時代だったので 多くの国々がかなりやられた。

敗戦革命といって戦争に負けて、負けた国を共産党勢力が乗っとるということを当然日本も対象にしていた。日本が戦争に負けた後 軍隊が無くなり、警察がほとんど無くなり、治安組織も無くなり、政府機能は麻痺し。

そのような状況の下で共産党と共産党に組する労働組合が暴れ放題。そして ゼネストっていって国家が機能麻痺して一気に権力を握ろうということを 1947年の二・一 ゼネストの時に企んでいたし、それを GHQの中にいる ソ連のスパイもも応援していた。

非常に危ない状況だったんだということを、この本に書いたんです。

ヴェノナ文書

戦争中に アメリカの ルーズベルト民主党政権。民主党なんですね。日本の民主党と同じで(笑)

アメリカは一枚岩じゃなくて共和党は共産党が嫌いだったんですが民主党は共産党に融和的で、ルーズベルトは ソ連共産党に非常に甘くて、その結果 ホワイトハウスを含めた ルーズベルト政権の中に ソ連の スパイがいて、彼らが日本と アメリカが戦うように仕向けたのではないのかというような噂はずっとあった。

それまでは証拠が無かったので陰謀論だと言われていたが、1995年に ヴェノナ文書といって、実は 戦争中に アメリカ陸軍情報部が ホワイトハウスや ルーズベルト政権のところに居る官僚たちの機密電報を傍受して解読作戦をやっていた。

それがだいたい 5000ページぐらいあるんですが アメリカの NSA という政府機関で全て見れます。これを解読したら、例えば ハルノートを作った ハリー・デクスター・ホワイトは ソ連の スパイだった。

日本国憲法の制定に関わっていた トーマス・アーサー・ビッソンというのも ソ連の スパイだったというようなことが次々と表に出てきて、やっぱり ルーズベルト政権の中に スパイが居たというのは嘘じゃなかったということが アメリカ政府の文書の中で明らかになった。

ヴェノナ文書についての詳しい解説は、『暴かれたコミンテルンの真実』へ

極東コミンフォルム大会

コミンテルンという世界を共産主義化する世界中の組織というのは戦争中に一旦廃止するんです。

ソ連が アメリカと組むにあたって、これからは世界共産化を辞めます。ということで コミンテルンというのは一応 一旦は廃止した。廃止したんだけれども第二次世界対戦が終わった後、東欧共産主義化をどんどんしますよね。

再び世界共産化を始めていく。

1947年に コミンテルンに変わって今度は コミンフォルムという組織を作るんです。実質的に同じですが名前だけが変わったということですね。世界共産主義 ネットワークの司令塔。

まず ヨーロッパを共産主義にする。ヨーロッパは ポーランドとか バルト三国とかをだんだんだんだん支配して、大体一通り終わった段階で スターリンは次はアジアに狙いを定めた。

ということで 1947年に極東 コミンフォルム大会を開いて アジア共産化をこれからするぞ!

お前ら、共産主義者たちよ ソ連、中国共産党に呼応して アジア共産化頑張れ! と言って アジアの共産主義者たちを集めて大会をやるんです。

この時 当然日本共産党の幹部も参加していたと言われている。この大会は ウラジオストクと ハルビンで行わてれいる。何回か行われているんです。11月と翌年の 1月。大会では軍資金と言って金の延べ棒や宝石とかを ガサッと貰ってそれを持ち帰って革命資金にしてた。

というような形の話で、極東 コミンフォルムが動き始めて本格的に ソ連と中国共産党が乗り出して アジア共産化を始めている。

これまずいんじゃねえのか ということで、この情報収集をするために アメリカの占領軍がもの凄い勢いで情報収集を始めるんですね。

GHQ の中にも反共派の人たちと容共派の人たちと真っ二つでして、どちらかと言うと容共派の人たちの勢力が強かった。一貫して強かった。なぜかというと トルーマンは民主党政権なんです。

マッカーサーは共産党は嫌いだったんですが、共産党なんて大したこと出来ないと高を括ってた。マッカーサーというのは常に時局を甘く見て、判断をミスする司令官としては甘ちゃんの司令官なんですね。

だから フィリピン戦線でも日本軍にやられるし、ようは司令官として自信過剰すぎて相手を甘く見るという、司令官としちょっとマズい司令官なんです。

マッカーサーはね、ちょっとまぁ イデオロギーはそれなりにしてるかもしれないけれども、言い方悪いけど日本の政治家に例えると、中谷元先生とかね。岩屋先生とかね。マッカーサーは共和党なんですけどね…一応。

当時、共産党がそこまで日本で力を持つと思っていなくて マッカーサーは舐めまくっていた。共産党なんて何もできないよねというのと、あと部下たちに容共主義者がいっぱい居て、こいつら俺の部下だから部下たちが言うんだから大丈夫だよ みたいな。すぐ部下に騙されるタイプ…

朝鮮戦争の引き金

ここで問題になったのは朝鮮半島と台湾を入れてないんです。

当時は中国共産党政権ができていて中華人民共和国ができていて中国は チベットだ ウイグルだ、どんどんどんどん侵略し始めていた時。ソ連も ヨーロッパを侵略していた時。

世界を共産化するためにやる気満々。とりわけ中国は蒋介石政権との戦いに勝って、

「俺たちは中国を取ったぞ!」

すごい高揚感のある直後に、アメリカは朝鮮半島や台湾は守る気はありませんと言ってしまった。

アチソンっていう人は実は バリバリの民主党員なんですが コミンテルンの スパイたちが書いている本の愛読者だったんです。

要するに天皇戦犯だとか、日本を撃ち滅ぼせとか、日本は軍国主義者で世界を侵略しているひどい国だから国家神道を潰してしまえとか、そういう本ばっかり読んで。

言い方悪いけど、新聞赤旗ばっかり読んで物を考えてる人。 朝日新聞とかね(笑)

という人なんで、この人は後でゴメンなさいって言って、僕は アチソンラインって言ったけど台湾や朝鮮半島は守らないって言ってないですと修正しました。後から一生懸命修正しました。批判されて。だけど最初はそういう事言っちゃったんですね。

だからこそ、金日正が韓国に攻め込もうと引き金を引かせてしまった。

アメリカは来ないんだと保証を与えてしまった。朝鮮半島は守らないんだな、言わないってことは守んないんだなと。

今回も岩屋大臣が言っているのは宮古島は守んないんだな。そう受け取られても仕方がない。岩屋大臣はそういうつもりはないでしょうけど…

次回予告

敗戦から5年。

焼け野原だった日本国が徐々に復興して行き、女性の間ではアコーディオン・プリーツのスカートや映画の影響で赤い靴が流行し、森永製菓からミルクキャラメルが発売され、浅香光代一座の女剣劇の立ち回りで着物の裾がめくれてチラリズムという言葉が流行ったり、国民が今できる日々の生活を精一杯楽しんでいた昭和25年(1950)。

その裏では、ソ連 中国 北朝鮮は日本を侵略するために虎視眈々と準備し、日本の目前まで攻め込んできた危機的状況を『抑止力を持たない国家の運命』で解説する。

もしもあの時 歯車が一つでも狂っていたならば、北海道はソ連にやられて日本は分断され、映画や化粧やファッションを楽しめない時代に戻っていたかもしれない。